同窓生のHさんとSさんに、池袋界隈で久しぶりの再会。Hさんは徳島から一時帰京中。農村塾の昔話?に花を咲かせる。徳島土産の中国四国限定販売「柑橘黄金ブレンドのKitKat」(すごいネーミング!果敢なKitKatの挑戦の中ではかなり成功してる味!)、農林水産大臣賞「秘境のめぐみ そば米ぞうすい フリーズドライ」。地域は頑張ってるなー。Sさんの経堂土産は世田谷名物「招福もなか」。3色の招き猫がかなりかわいい。ご馳走様です!
2010年2月20日土曜日
2010年2月16日火曜日
2010年2月14日日曜日
おがわまち有機農業フォーラム2010に参加しました
2010年2月11日木曜日
映画 祝(ほうり)の島
第52回農村青年塾の講師である写真家・映画監督の本橋成一さんからの情報です。
農村塾では『ナージャの村』というチェルノブイリ原発事故をテーマにした映画の上映会をしていただきました。重いテーマではありますが、美しい自然の村の様子が映し出されていくさまは、時々テーマを忘れさせてくれました。
日本の原発をテーマにした映画『祝の島』(纐纈(はなぶさ)あや監督)は、現在製作中。上関原発建設に27年間も反対し続けている山口県上関町の沖合に浮かぶ人口500人の祝(いわい)島の人びとを描いた映画です。海を壊す原発建設と、海が生命線の島の生活。私たちの日常生活の中にも、こうした葛藤は常に埋め込まれてることを考えると、もっともっと自分の暮らしを変えていかなきゃ、と思ってしまいます。
この夏公開予定だそうです。
http://web.me.com/polepoletimes/hourinoshima/top.html
↑このサイトでは、映画を作るプロセスも共有できます!
農村塾では『ナージャの村』というチェルノブイリ原発事故をテーマにした映画の上映会をしていただきました。重いテーマではありますが、美しい自然の村の様子が映し出されていくさまは、時々テーマを忘れさせてくれました。
日本の原発をテーマにした映画『祝の島』(纐纈(はなぶさ)あや監督)は、現在製作中。上関原発建設に27年間も反対し続けている山口県上関町の沖合に浮かぶ人口500人の祝(いわい)島の人びとを描いた映画です。海を壊す原発建設と、海が生命線の島の生活。私たちの日常生活の中にも、こうした葛藤は常に埋め込まれてることを考えると、もっともっと自分の暮らしを変えていかなきゃ、と思ってしまいます。
この夏公開予定だそうです。
http://web.me.com/polepoletimes/hourinoshima/top.html
↑このサイトでは、映画を作るプロセスも共有できます!
2010年2月10日水曜日
農村青年塾の歴史(5)最終回
農村青年塾の歴史の最終回です。
時代の中で農村青年塾がどういう役割を果たしたかに思いをめぐらせ、今、私たちが何をするのかを考えていきたいですね。
=========
戦争による農村疲弊と荒廃、そして「天皇制に基づく明治地主体制」を衣替えした、新たな「国家地主体制」による農村・農業への収奪。このような状況下で、もはや農業への期待を失い離農へと傾いていく農村青年たち。1961年以来の農業基本法農政が「選択的拡大」と称して小規模営農が切り捨てられていく状況の中で、農業をやめるか政府の奨める大規模経営に踏み切るかの岐路で立ち尽くす孤立化した農村青年たち。そのような農村青年に対して樋浦の示す「農業への希望」のメッセージは、どれほどの勇気を彼らに与えたことであろうか。樋浦自身の意識としては、「天皇制に基づく明治地主体制」や戦後の「国家地主体制」の理解は不十分であったかもしれない。それは、彼の著作の中にも抽象的な文言でしか表現されていない。しかし、言葉としてではなく実際として、樋浦の中にそれらのことも暗黙の理解として存在していたと言えよう。
農村青年塾の運営母体であるYMCAは、当初各地のYMCAの英語学校等の事業収入により比較的その経営も順調であったが、やがてさまざまな形で経営に困難をきたすようになり、各事業は縮小されるようになった。それ以前にも、農村の変貌により各地の農村YMCAが消滅していくことがあり、農村青年塾活動もその影響を受け、やや勢力を落としているように見受けられる。しかし、最近は農民だけではなく、「食」や「環境」等に関心をもつ者や、都市消費者たちの参加も見られ、その幅が広がっている。
一方、日本の教会はこのYMCA農村青年塾には冷淡である。そして、なんらかの協力もなさないのみならず、関心さえ払おうとしない。それは、農村青年塾がキリスト教色を薄めたからであり、「教化」を全くその目的から外したからでもあり、教会の眼からみればキリスト教の枠を逸脱したキリスト教運動と映ったからである。しかし現実的には、教会の枠、教化の枠を超えたからこそ農村青年塾は広がりを見せ、また継続され得たのである。
YMCA農村青年塾は、戦後の荒廃した農村に小さなともし火をかかげた運動であり、また農村復興に関わった一つの働きであったことは事実である。(注4)
(注4)この稿の参考資料:日本YMCA同盟『日本農村青年塾30年史』(日本YMCA同盟、1984年)、同『農村青年塾ニュースレター』、同『農村青年塾報告書』各号、同農村青年塾同窓会編『種まく新人』合本(日本YMCA同盟、1990年)、福島伊達教会百年史編集委員会『日本基督教団福島伊達教会六十五年史』(日本基督教団福島伊達教会、1956年)、樋浦誠先生追悼集刊行会『求めよさらば与えられん-樋浦誠先生遺稿・追憶集』(酪農学園同窓会連合会、1992年)、岐阜教会百年史編纂委員会『日本キリスト教会・岐阜教会創立百周年記念史』(日本キリスト教会岐阜教会、1995年、小山源吾他編『高原の記録-松田智雄と信州』(新教出版社、1996年)
時代の中で農村青年塾がどういう役割を果たしたかに思いをめぐらせ、今、私たちが何をするのかを考えていきたいですね。
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戦争による農村疲弊と荒廃、そして「天皇制に基づく明治地主体制」を衣替えした、新たな「国家地主体制」による農村・農業への収奪。このような状況下で、もはや農業への期待を失い離農へと傾いていく農村青年たち。1961年以来の農業基本法農政が「選択的拡大」と称して小規模営農が切り捨てられていく状況の中で、農業をやめるか政府の奨める大規模経営に踏み切るかの岐路で立ち尽くす孤立化した農村青年たち。そのような農村青年に対して樋浦の示す「農業への希望」のメッセージは、どれほどの勇気を彼らに与えたことであろうか。樋浦自身の意識としては、「天皇制に基づく明治地主体制」や戦後の「国家地主体制」の理解は不十分であったかもしれない。それは、彼の著作の中にも抽象的な文言でしか表現されていない。しかし、言葉としてではなく実際として、樋浦の中にそれらのことも暗黙の理解として存在していたと言えよう。
農村青年塾の運営母体であるYMCAは、当初各地のYMCAの英語学校等の事業収入により比較的その経営も順調であったが、やがてさまざまな形で経営に困難をきたすようになり、各事業は縮小されるようになった。それ以前にも、農村の変貌により各地の農村YMCAが消滅していくことがあり、農村青年塾活動もその影響を受け、やや勢力を落としているように見受けられる。しかし、最近は農民だけではなく、「食」や「環境」等に関心をもつ者や、都市消費者たちの参加も見られ、その幅が広がっている。
一方、日本の教会はこのYMCA農村青年塾には冷淡である。そして、なんらかの協力もなさないのみならず、関心さえ払おうとしない。それは、農村青年塾がキリスト教色を薄めたからであり、「教化」を全くその目的から外したからでもあり、教会の眼からみればキリスト教の枠を逸脱したキリスト教運動と映ったからである。しかし現実的には、教会の枠、教化の枠を超えたからこそ農村青年塾は広がりを見せ、また継続され得たのである。
YMCA農村青年塾は、戦後の荒廃した農村に小さなともし火をかかげた運動であり、また農村復興に関わった一つの働きであったことは事実である。(注4)
(注4)この稿の参考資料:日本YMCA同盟『日本農村青年塾30年史』(日本YMCA同盟、1984年)、同『農村青年塾ニュースレター』、同『農村青年塾報告書』各号、同農村青年塾同窓会編『種まく新人』合本(日本YMCA同盟、1990年)、福島伊達教会百年史編集委員会『日本基督教団福島伊達教会六十五年史』(日本基督教団福島伊達教会、1956年)、樋浦誠先生追悼集刊行会『求めよさらば与えられん-樋浦誠先生遺稿・追憶集』(酪農学園同窓会連合会、1992年)、岐阜教会百年史編纂委員会『日本キリスト教会・岐阜教会創立百周年記念史』(日本キリスト教会岐阜教会、1995年、小山源吾他編『高原の記録-松田智雄と信州』(新教出版社、1996年)
2010年2月8日月曜日
農村青年塾の歴史(4)
4.「東山荘」にて
YMCA日本農村青年塾は、その後静岡県御殿場にあるYMCAの施設「東山荘」を固定の会場にして、毎年開催されることになる。この開催は、キリスト教界のみならず、農業新聞等の一般紙においても広く案内され、キリスト教とは無縁であった一般農村青年たちの参加も多くみられるようになった。また、講師の中に前述の人々のほか、農業経済学の大内力、首相をつとめた片山哲、農業協同組合問題の美土路達雄、岩手県農村文化懇談会の石川武雄、玉川農協の山口一門、女性問題の平塚光代、文学者の佐古純一郎、畜産学の西川春雄等、その方面の第一線で働く人々も招かれ、参加する農村青年に高度な学習内容を提供したほか、農業・農村が直面する諸問題が時にかなって取り上げられた。それは、農民福音学校や日本基督教団の農村伝道方策以上に現実的であり、かつ農村・農業・農民を取り巻く状況に深く関わるものであった。農民福音学校や教会(教団)のなす農村活動の根底に「教化」という目的があったことに対して、YMCA日本農村青年塾では「教化」の枠を超えた自由な発想と計画の立案があったからであろう。
日本YMCA農村青年塾は、その後アジア学院への留学生たちの参加もあり、また韓国農村YMCAからの参加もあり、「日本」という冠称を取り払い「YMCA農村青年塾」と名称を変え、現在も存続している。年に1回の御殿場東山荘での集会の開催のほか、過去の参加者で組織する「YMCA農村青年塾同窓会」が韓国農村YMCAとの交流会やスタディーツアーを計画するほか、同窓会発行の「種まく新人」という冊子やニュースレターを通して同窓生間のネットワークの働きもしている。
そのほかYMCA農村青年塾には、キリスト教主義女性教育に長い歴史と実績をもつ恵泉女学園が戦後東京都下に開いた園芸生活科から学生が参加しはじめ、そこから農業青年との結婚に至ったり、また女性たちが農業に取り組んでいく事例が見られるようになる。
農村青年塾の同窓生の分布は全国に広くまたがり、各地で農業を実際に営むほか、農村における政治活動や文化活動、生活改善活動、農村教育活動、協同組合活動に従事している者も少なくない。
同じキリスト教関係の農村運動「農民福音学校運動」はその中心に、営農方策また農業技術として「立体農業」というものを置いていたことは良く知られることであるが、YMCA農村青年塾には、一つの決まった営農方策があったわけではない。時に立体農業をも紹介し、また時に近代化農業の紹介もあった。その他、複合経営や有機農業の紹介もなされた。農村青年塾への参加者たちは、それらを参考にして自らの営農を考えていったのである。しかし、小作農地の大半が開放された農地改革による「戦後自作農体制」になっても、また1961年以来の「農業基本法農政」の時代を迎えても、いつの時代においても農民は基本的にその労働が充分に報われることがない状況に置かれていたので、農村青年塾においても現政治体制による農政への批判的学習がなされていたのは事実である。また、国家体制や農政に対して従順であったがゆえに相つぐ戦争への協力を強制され、そのことが戦時中と戦後の農村荒廃を招いたこと、さらにはアジア諸国の農村の荒廃にも加担したことを振り返り、農村青年塾では体制や政治、また古い因習や慣習に対して自立し主体性を確保できる農民の育成が考えられていた。そのことは、初代塾長の樋浦の最も期待することであった。
樋浦は教会人ではあったが、教会で自らが学んだ聖書の思想を農村青年塾の中心に据えつつ、教会の聖書解釈とキリスト教理解の枠を超えて大胆に農村青年に訴えるメッセージを語った。この樋浦の熱心に突き動かされる者は少なくなかった。
YMCA日本農村青年塾は、その後静岡県御殿場にあるYMCAの施設「東山荘」を固定の会場にして、毎年開催されることになる。この開催は、キリスト教界のみならず、農業新聞等の一般紙においても広く案内され、キリスト教とは無縁であった一般農村青年たちの参加も多くみられるようになった。また、講師の中に前述の人々のほか、農業経済学の大内力、首相をつとめた片山哲、農業協同組合問題の美土路達雄、岩手県農村文化懇談会の石川武雄、玉川農協の山口一門、女性問題の平塚光代、文学者の佐古純一郎、畜産学の西川春雄等、その方面の第一線で働く人々も招かれ、参加する農村青年に高度な学習内容を提供したほか、農業・農村が直面する諸問題が時にかなって取り上げられた。それは、農民福音学校や日本基督教団の農村伝道方策以上に現実的であり、かつ農村・農業・農民を取り巻く状況に深く関わるものであった。農民福音学校や教会(教団)のなす農村活動の根底に「教化」という目的があったことに対して、YMCA日本農村青年塾では「教化」の枠を超えた自由な発想と計画の立案があったからであろう。
日本YMCA農村青年塾は、その後アジア学院への留学生たちの参加もあり、また韓国農村YMCAからの参加もあり、「日本」という冠称を取り払い「YMCA農村青年塾」と名称を変え、現在も存続している。年に1回の御殿場東山荘での集会の開催のほか、過去の参加者で組織する「YMCA農村青年塾同窓会」が韓国農村YMCAとの交流会やスタディーツアーを計画するほか、同窓会発行の「種まく新人」という冊子やニュースレターを通して同窓生間のネットワークの働きもしている。
そのほかYMCA農村青年塾には、キリスト教主義女性教育に長い歴史と実績をもつ恵泉女学園が戦後東京都下に開いた園芸生活科から学生が参加しはじめ、そこから農業青年との結婚に至ったり、また女性たちが農業に取り組んでいく事例が見られるようになる。
農村青年塾の同窓生の分布は全国に広くまたがり、各地で農業を実際に営むほか、農村における政治活動や文化活動、生活改善活動、農村教育活動、協同組合活動に従事している者も少なくない。
同じキリスト教関係の農村運動「農民福音学校運動」はその中心に、営農方策また農業技術として「立体農業」というものを置いていたことは良く知られることであるが、YMCA農村青年塾には、一つの決まった営農方策があったわけではない。時に立体農業をも紹介し、また時に近代化農業の紹介もあった。その他、複合経営や有機農業の紹介もなされた。農村青年塾への参加者たちは、それらを参考にして自らの営農を考えていったのである。しかし、小作農地の大半が開放された農地改革による「戦後自作農体制」になっても、また1961年以来の「農業基本法農政」の時代を迎えても、いつの時代においても農民は基本的にその労働が充分に報われることがない状況に置かれていたので、農村青年塾においても現政治体制による農政への批判的学習がなされていたのは事実である。また、国家体制や農政に対して従順であったがゆえに相つぐ戦争への協力を強制され、そのことが戦時中と戦後の農村荒廃を招いたこと、さらにはアジア諸国の農村の荒廃にも加担したことを振り返り、農村青年塾では体制や政治、また古い因習や慣習に対して自立し主体性を確保できる農民の育成が考えられていた。そのことは、初代塾長の樋浦の最も期待することであった。
樋浦は教会人ではあったが、教会で自らが学んだ聖書の思想を農村青年塾の中心に据えつつ、教会の聖書解釈とキリスト教理解の枠を超えて大胆に農村青年に訴えるメッセージを語った。この樋浦の熱心に突き動かされる者は少なくなかった。
2010年2月7日日曜日
農村青年塾の歴史(3)
3.戦後の農村復興に対して
第二次世界戦争中、YMCAの活動は大きな制約を受け、また各地のYMCAの建物の焼失もあって大きな打撃を受け、本来の活動は完全な休止状態に追い込まれていた。戦後、アメリカ・カナダのYMCAからの援助もあり、徐々に活動を再開する。日本YMCA同盟では農村事業部を再開させ、戦後の農村復興への関わりを探りはじめるが、これも長岡農村YMCAを担ったグループ、とくに遠藤修司の熱意によるものである。長岡教会は伊達地域にある教会と分離し、同一地域に二つの教会が存在することとなっていたが、再度合同して福島伊達教会となった。戦後いち早く、遠藤は福島伊達教会牧師本宮幸四郎らと共に1946年1月に、福島伊達教会を会場に農村YMCA指導者懇談会を開催する。その後、翌1947年から伊達YMCA冬季講座を1952年まで毎年継続して行う。しかし、これはまだ地域的事業であった。この時期、伊達農村YMCAのような地域的農村活動を行っていたYMCA関連の活動は、以下の通りである。
東京都町田市鶴川(寒竹学苑)、福島県桑折村(桑折基督教青年会)、山梨県(青雲グループ)、千葉県米沢村(米沢酪農組合)、群馬県柏倉村(柏倉聖書研究会)、熊本県阿蘇(熊本YMCA)、山梨県都留(都留YMCA)等。
以上のような前史を経て、1953年に日本YMCA同盟の主催する農村YMCA指導者協議会が開かれ、農村青年塾の準備がなされる。そして1955年1月に東京小金井にて第一回「YMCA日本農村青年塾」が開かれることとなる。塾長は、戦前のYMCA冬季学校にも関わりをもち、戦後組織された日本YMCA農村事業部の委員でもあった酪農学園短期大学学長の樋浦誠(注3)であった。また、前職における樋浦は岐阜大学農学部の前身岐阜高等農林学校YMCAの1930年代からのリーダーでもあったので、樋浦の思いの中には、その頃から農村青年教育に強い関心があったと言えよう。この樋浦が、YMCA農村事業部委員会の席上、農村青年塾を強く主張したのである。樋浦の主張の中で注目すべきは「塾」という文言を付けることであった。従来、農民福音学校、国民高等学校、冬季学校等、「学校」という名称が付けられていたが、それは「学校」を官製のものから一般農民のものへと取り戻すという意味においては当を得たものであった。しかし、それは同時に制度的・組織的響きをもち、どこかで「官」と繋がっているという感想を一般農民に与えかねないという懸念もあった。樋浦は、実際に農業に取り組む農民、とりわけ次代の農村と農業を担う農村青年に戦後日本の農村更正と農業復興を託す意味をこめて「日本農村青年塾」としたのである。
第一回日本農村青年塾の主題は「新しき日本農村建設のために」であったが、その学習テーマの主なものを列挙してみよう。「中国の文化」「畜産の現状と将来」「日本農業の進路」「酪農経営」「土壌と肥料」「立体農業」「農村社会の基本問題」「農村政策」「農村金融」「アメリカの農村事情」「アメリカの4Hクラブ」「民主主義と農村青年」「グループワーク」「レクリエーション」「歌とゲーム」等である。講師は、賀川豊彦、出納陽一、池田実、柴三九男、松田智雄、遠藤修司、大谷英一、木俣敏、齊藤惣一、酒枝義旗、大崎治部、永井三郎等であった。これら講師の顔ぶれを見ると、無教会キリスト者など多岐に渡っている。これは、YMCA日本農村青年塾が日本のキリスト教界のそれぞれの農村活動を結びつける役割を果たしていたことの現れでもあろう。また、この中には樋浦を初代学長として生まれた、北海道野幌の酪農学園大学の創設に関わる者もいた。
(注3)
樋浦誠(1898-1991)。1922年、北海道大学農学部助手。1924年、岐阜高等農林学校教授(植物病理)。1965年、酪農学園大学退職。同年、農村女子三愛塾開設。1969年、浜松衛生短期大学学長。その間、1970年、岩手三愛農村塾開設。1975年、上富良野農村三愛塾開設。1980年、根釧農村三愛塾開設。1985年、旭川農村三愛塾開設。尚、自然農法で世界に知られる愛媛県の福岡正信は、樋浦の岐阜高等農林時代の教え子である。
第二次世界戦争中、YMCAの活動は大きな制約を受け、また各地のYMCAの建物の焼失もあって大きな打撃を受け、本来の活動は完全な休止状態に追い込まれていた。戦後、アメリカ・カナダのYMCAからの援助もあり、徐々に活動を再開する。日本YMCA同盟では農村事業部を再開させ、戦後の農村復興への関わりを探りはじめるが、これも長岡農村YMCAを担ったグループ、とくに遠藤修司の熱意によるものである。長岡教会は伊達地域にある教会と分離し、同一地域に二つの教会が存在することとなっていたが、再度合同して福島伊達教会となった。戦後いち早く、遠藤は福島伊達教会牧師本宮幸四郎らと共に1946年1月に、福島伊達教会を会場に農村YMCA指導者懇談会を開催する。その後、翌1947年から伊達YMCA冬季講座を1952年まで毎年継続して行う。しかし、これはまだ地域的事業であった。この時期、伊達農村YMCAのような地域的農村活動を行っていたYMCA関連の活動は、以下の通りである。
東京都町田市鶴川(寒竹学苑)、福島県桑折村(桑折基督教青年会)、山梨県(青雲グループ)、千葉県米沢村(米沢酪農組合)、群馬県柏倉村(柏倉聖書研究会)、熊本県阿蘇(熊本YMCA)、山梨県都留(都留YMCA)等。
以上のような前史を経て、1953年に日本YMCA同盟の主催する農村YMCA指導者協議会が開かれ、農村青年塾の準備がなされる。そして1955年1月に東京小金井にて第一回「YMCA日本農村青年塾」が開かれることとなる。塾長は、戦前のYMCA冬季学校にも関わりをもち、戦後組織された日本YMCA農村事業部の委員でもあった酪農学園短期大学学長の樋浦誠(注3)であった。また、前職における樋浦は岐阜大学農学部の前身岐阜高等農林学校YMCAの1930年代からのリーダーでもあったので、樋浦の思いの中には、その頃から農村青年教育に強い関心があったと言えよう。この樋浦が、YMCA農村事業部委員会の席上、農村青年塾を強く主張したのである。樋浦の主張の中で注目すべきは「塾」という文言を付けることであった。従来、農民福音学校、国民高等学校、冬季学校等、「学校」という名称が付けられていたが、それは「学校」を官製のものから一般農民のものへと取り戻すという意味においては当を得たものであった。しかし、それは同時に制度的・組織的響きをもち、どこかで「官」と繋がっているという感想を一般農民に与えかねないという懸念もあった。樋浦は、実際に農業に取り組む農民、とりわけ次代の農村と農業を担う農村青年に戦後日本の農村更正と農業復興を託す意味をこめて「日本農村青年塾」としたのである。
第一回日本農村青年塾の主題は「新しき日本農村建設のために」であったが、その学習テーマの主なものを列挙してみよう。「中国の文化」「畜産の現状と将来」「日本農業の進路」「酪農経営」「土壌と肥料」「立体農業」「農村社会の基本問題」「農村政策」「農村金融」「アメリカの農村事情」「アメリカの4Hクラブ」「民主主義と農村青年」「グループワーク」「レクリエーション」「歌とゲーム」等である。講師は、賀川豊彦、出納陽一、池田実、柴三九男、松田智雄、遠藤修司、大谷英一、木俣敏、齊藤惣一、酒枝義旗、大崎治部、永井三郎等であった。これら講師の顔ぶれを見ると、無教会キリスト者など多岐に渡っている。これは、YMCA日本農村青年塾が日本のキリスト教界のそれぞれの農村活動を結びつける役割を果たしていたことの現れでもあろう。また、この中には樋浦を初代学長として生まれた、北海道野幌の酪農学園大学の創設に関わる者もいた。
(注3)
樋浦誠(1898-1991)。1922年、北海道大学農学部助手。1924年、岐阜高等農林学校教授(植物病理)。1965年、酪農学園大学退職。同年、農村女子三愛塾開設。1969年、浜松衛生短期大学学長。その間、1970年、岩手三愛農村塾開設。1975年、上富良野農村三愛塾開設。1980年、根釧農村三愛塾開設。1985年、旭川農村三愛塾開設。尚、自然農法で世界に知られる愛媛県の福岡正信は、樋浦の岐阜高等農林時代の教え子である。
2010年2月6日土曜日
農村青年塾の歴史(2)
2.農村YMCA運動
日本におけるYMCAの初期の活動は主に学生への伝道というかたちでなされ、東京大学(当時の「東京帝国大学」)を皮切りに、各地の学校にYMCAが結成された。各地の学校にYMCAが結成された。各地の学校にYMCAが結成されるきっかけの多くは、その学校にキリスト者の教師がいたことによる。
福島県の長岡村(現・伊達町)の福島県蚕業学校に遠藤修司(注1)というキリスト者教師がいた。長岡には、早くからキリスト教の伝道がなされ、1891年には教会(現在の福島伊達教会)が設立されている。遠藤はこの流れを汲む長岡教会(長岡日本基督教会)の会員であった。この遠藤のもとで、1928年福島蚕業学校にYMCAが作られたのである。また、これに先立つこと21年、1907年に日本で最初の農村YMCAが「長岡基督教青年会」と称して、長岡基督教青年会館内に設立されている。
長岡という農村にある蚕業学校にYMCAが誕生したことを受けて、日本YMCA同盟では農村におけるYMCA活動を活発に行うことを事業計画の中に組み入れ、冬季に農村青年を対象にした「冬季学校」を長岡に開校することとした(注2)。第1回の長岡YMCA冬季学校は1931年の12月1日から翌年の3月21日まで行われている。会場は長岡教会である。この冬季学校の開校も遠藤に負うところが多い。
また一方で、静岡県伊豆の久連村(現・沼津市久連)に、札幌農学校の第一期生渡瀬寅次郎の遺志で、農民復員学校のモデルにもなったデンマークの国民高等学校の農民教育の実践を目指した「久連国民高等学校」が建てられた。これには内村鑑三や新渡戸稲造も共鳴し、さらに日本YMCA同盟の総主事齊藤惣一も協力した。そのような経緯から、久連国民高等学校を会場にして、長岡YMCAという個別の事業ではなく、日本YMCA同盟として、1938年に第一回農村YMCA冬季学校が開催された。その後、長岡の地域冬季学校もYMCA同盟の農村YMCA活動に組み入れられ、久連と長岡を交互に用いるかたちで冬季学校が開かれることとなった。
長岡村のある福島県でも、1930年に農村大恐慌に端を発する小作争議が頻発し、農村の窮状が訴えられていた。そのような農村の状況が、長岡の蚕業学校にYMCAを生まれさせ、また冬季学校を開かせたのであろう。
久連の国民高等学校は、長岡のような背景はなく、どちらかといえば農村青年に知識を与え、農村更正に向かわせる精神を高揚させることが主眼であった。久連国民高等学校は、その後九州大学(当時の九州帝国大学)を辞した大谷英一が渡瀬の遺志を継いで主宰者としての任を勤めていたが、広く農民に知られるものではなかった。
長岡農村YMCAの活動と久連の国民高等学校が、日本YMCA同盟の農村活動の中に組み合わせられ「農村YMCA冬季学校」として1941年まで継続されたが、日本が戦時態勢を迎えるとともにその活動を休止する。
この二つの活動が嚆矢となって、戦後のYMCA日本農村青年塾へと発展するのである。
(注1)遠藤修司(1907-1989) 1925年、福島県蚕業学校教諭。1926年、長岡農村YMCA会長および主事を兼務。1941年、日本YMCA同盟冬季学校校長。1952年、日本YMCA農村事業部委員長。1955年、YMCA日本農村青年塾運営委員長。
(注2)長岡基督教青年会が日本YMCA同盟の傘下に入る以前に、1902年の1月に独自の「長岡冬季学校」がすでに行われている。これとは別に、YMCAの冬季学校が長岡で開かれたのであるが、もちろんこの冬季学校がその嚆矢となっていることは言うまでもない。
日本におけるYMCAの初期の活動は主に学生への伝道というかたちでなされ、東京大学(当時の「東京帝国大学」)を皮切りに、各地の学校にYMCAが結成された。各地の学校にYMCAが結成された。各地の学校にYMCAが結成されるきっかけの多くは、その学校にキリスト者の教師がいたことによる。
福島県の長岡村(現・伊達町)の福島県蚕業学校に遠藤修司(注1)というキリスト者教師がいた。長岡には、早くからキリスト教の伝道がなされ、1891年には教会(現在の福島伊達教会)が設立されている。遠藤はこの流れを汲む長岡教会(長岡日本基督教会)の会員であった。この遠藤のもとで、1928年福島蚕業学校にYMCAが作られたのである。また、これに先立つこと21年、1907年に日本で最初の農村YMCAが「長岡基督教青年会」と称して、長岡基督教青年会館内に設立されている。
長岡という農村にある蚕業学校にYMCAが誕生したことを受けて、日本YMCA同盟では農村におけるYMCA活動を活発に行うことを事業計画の中に組み入れ、冬季に農村青年を対象にした「冬季学校」を長岡に開校することとした(注2)。第1回の長岡YMCA冬季学校は1931年の12月1日から翌年の3月21日まで行われている。会場は長岡教会である。この冬季学校の開校も遠藤に負うところが多い。
また一方で、静岡県伊豆の久連村(現・沼津市久連)に、札幌農学校の第一期生渡瀬寅次郎の遺志で、農民復員学校のモデルにもなったデンマークの国民高等学校の農民教育の実践を目指した「久連国民高等学校」が建てられた。これには内村鑑三や新渡戸稲造も共鳴し、さらに日本YMCA同盟の総主事齊藤惣一も協力した。そのような経緯から、久連国民高等学校を会場にして、長岡YMCAという個別の事業ではなく、日本YMCA同盟として、1938年に第一回農村YMCA冬季学校が開催された。その後、長岡の地域冬季学校もYMCA同盟の農村YMCA活動に組み入れられ、久連と長岡を交互に用いるかたちで冬季学校が開かれることとなった。
長岡村のある福島県でも、1930年に農村大恐慌に端を発する小作争議が頻発し、農村の窮状が訴えられていた。そのような農村の状況が、長岡の蚕業学校にYMCAを生まれさせ、また冬季学校を開かせたのであろう。
久連の国民高等学校は、長岡のような背景はなく、どちらかといえば農村青年に知識を与え、農村更正に向かわせる精神を高揚させることが主眼であった。久連国民高等学校は、その後九州大学(当時の九州帝国大学)を辞した大谷英一が渡瀬の遺志を継いで主宰者としての任を勤めていたが、広く農民に知られるものではなかった。
長岡農村YMCAの活動と久連の国民高等学校が、日本YMCA同盟の農村活動の中に組み合わせられ「農村YMCA冬季学校」として1941年まで継続されたが、日本が戦時態勢を迎えるとともにその活動を休止する。
この二つの活動が嚆矢となって、戦後のYMCA日本農村青年塾へと発展するのである。
(注1)遠藤修司(1907-1989) 1925年、福島県蚕業学校教諭。1926年、長岡農村YMCA会長および主事を兼務。1941年、日本YMCA同盟冬季学校校長。1952年、日本YMCA農村事業部委員長。1955年、YMCA日本農村青年塾運営委員長。
(注2)長岡基督教青年会が日本YMCA同盟の傘下に入る以前に、1902年の1月に独自の「長岡冬季学校」がすでに行われている。これとは別に、YMCAの冬季学校が長岡で開かれたのであるが、もちろんこの冬季学校がその嚆矢となっていることは言うまでもない。
2010年2月5日金曜日
農村青年塾の歴史(1)
前にも書きましたが、農村青年塾は1955年からの歴史だけでなく、その前史を持っています。これから数回にわたり、現塾代表が書かれた塾の歴史をご紹介していきたいと思います。
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YMCA農村青年塾の歴史
「農村伝道の業として、そして戦後農村復興運動の一つとして」(『日本農村青年塾50周年記念誌1995-2004』(日本YMCA同盟)より)
YMCA農村青年塾代表 星野正興
1.はじめに
YMCA農村青年塾50周年にあたり、その歴史を前史における開塾の動機ならびに経緯と全体の評価を含めて振り返るのが、本稿に課せられたことである。本塾の歴史の細部については年表に譲るとして、ここではYMCA農村青年塾がなぜ生まれ、どのように歴史を刻み、そして今どのような意味と使命を持って歩んでいるかについて記しておきたい。
農村青年塾開塾の前史には大きく分けて二つの動機がある。その二つの動機はともに日本の農村問題と深く関係している。
その一つは、明治初年に行われた「地租改正」をきっかけとして成立した「天皇制に基づく明治地主体制」のもとで困窮を余儀なくされた農村と農民が直面する諸問題へのキリスト教的関わりという動機である。
そしてもう一つは、第二次世界戦争で敗北し、荒廃し切った日本の農村をどのように立て直すかという大きな問題への、キリスト教界における関わりという動機である。この二つの動機については以下に述べることとするが、それとの関連でもう一つ記しておきたいことは、これらの動機にはさらに二つの側面があったということである。その第一の側面は、キリスト教会(界)の「農村伝道」というものであり、そして第二は「農村復興への参与」という側面である。「農村伝道」というものはキリスト教会(界)のなす占有事項である、また教会の大儀とするところであろう。具体的には、伝道がなされていない農山漁村に「キリストの福音」を伝えたり、その地に教会を立てたりすることである。そしてそのことが農村と農民に仕えることであり、また益することと考えるのである。この「農村伝道」のゆえに農村と農民が抱える問題に関わるのである。
そして第二の側面である「農村復興への参与」ということは、大きく言えば農村伝道の業ではあるものの、たとえ教会が立たなくても、たとえキリスト者が増えなくても、とにかく疲弊し困窮する農民と農村に関わるということである。とくに、戦争によって荒廃のきわみにあった戦後の農村の復興に対してキリスト教会(界)は責任的に関わりを持とうとしたのである。
YMCA農村青年塾は、このような二つの動機と二つの側面をもって始まり、歩みを続けて行ったと言えよう。この歩みは、日本全体から観れば、決して大きなものではない。しかし、日本のキリスト教史においても、また現代日本の農村史においても、その歩みは確かにそこに刻まれたものである。そしてこの歩みが個々の農民と農業に関心を持つ者たちに与えた作用とインパクトは、決して小さなものではない。
それらのことについて、以下に検証しそれを後代に残しておきたいと思う。
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YMCA農村青年塾の歴史
「農村伝道の業として、そして戦後農村復興運動の一つとして」(『日本農村青年塾50周年記念誌1995-2004』(日本YMCA同盟)より)
YMCA農村青年塾代表 星野正興
1.はじめに
YMCA農村青年塾50周年にあたり、その歴史を前史における開塾の動機ならびに経緯と全体の評価を含めて振り返るのが、本稿に課せられたことである。本塾の歴史の細部については年表に譲るとして、ここではYMCA農村青年塾がなぜ生まれ、どのように歴史を刻み、そして今どのような意味と使命を持って歩んでいるかについて記しておきたい。
農村青年塾開塾の前史には大きく分けて二つの動機がある。その二つの動機はともに日本の農村問題と深く関係している。
その一つは、明治初年に行われた「地租改正」をきっかけとして成立した「天皇制に基づく明治地主体制」のもとで困窮を余儀なくされた農村と農民が直面する諸問題へのキリスト教的関わりという動機である。
そしてもう一つは、第二次世界戦争で敗北し、荒廃し切った日本の農村をどのように立て直すかという大きな問題への、キリスト教界における関わりという動機である。この二つの動機については以下に述べることとするが、それとの関連でもう一つ記しておきたいことは、これらの動機にはさらに二つの側面があったということである。その第一の側面は、キリスト教会(界)の「農村伝道」というものであり、そして第二は「農村復興への参与」という側面である。「農村伝道」というものはキリスト教会(界)のなす占有事項である、また教会の大儀とするところであろう。具体的には、伝道がなされていない農山漁村に「キリストの福音」を伝えたり、その地に教会を立てたりすることである。そしてそのことが農村と農民に仕えることであり、また益することと考えるのである。この「農村伝道」のゆえに農村と農民が抱える問題に関わるのである。
そして第二の側面である「農村復興への参与」ということは、大きく言えば農村伝道の業ではあるものの、たとえ教会が立たなくても、たとえキリスト者が増えなくても、とにかく疲弊し困窮する農民と農村に関わるということである。とくに、戦争によって荒廃のきわみにあった戦後の農村の復興に対してキリスト教会(界)は責任的に関わりを持とうとしたのである。
YMCA農村青年塾は、このような二つの動機と二つの側面をもって始まり、歩みを続けて行ったと言えよう。この歩みは、日本全体から観れば、決して大きなものではない。しかし、日本のキリスト教史においても、また現代日本の農村史においても、その歩みは確かにそこに刻まれたものである。そしてこの歩みが個々の農民と農業に関心を持つ者たちに与えた作用とインパクトは、決して小さなものではない。
それらのことについて、以下に検証しそれを後代に残しておきたいと思う。
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