3.戦後の農村復興に対して
第二次世界戦争中、YMCAの活動は大きな制約を受け、また各地のYMCAの建物の焼失もあって大きな打撃を受け、本来の活動は完全な休止状態に追い込まれていた。戦後、アメリカ・カナダのYMCAからの援助もあり、徐々に活動を再開する。日本YMCA同盟では農村事業部を再開させ、戦後の農村復興への関わりを探りはじめるが、これも長岡農村YMCAを担ったグループ、とくに遠藤修司の熱意によるものである。長岡教会は伊達地域にある教会と分離し、同一地域に二つの教会が存在することとなっていたが、再度合同して福島伊達教会となった。戦後いち早く、遠藤は福島伊達教会牧師本宮幸四郎らと共に1946年1月に、福島伊達教会を会場に農村YMCA指導者懇談会を開催する。その後、翌1947年から伊達YMCA冬季講座を1952年まで毎年継続して行う。しかし、これはまだ地域的事業であった。この時期、伊達農村YMCAのような地域的農村活動を行っていたYMCA関連の活動は、以下の通りである。
東京都町田市鶴川(寒竹学苑)、福島県桑折村(桑折基督教青年会)、山梨県(青雲グループ)、千葉県米沢村(米沢酪農組合)、群馬県柏倉村(柏倉聖書研究会)、熊本県阿蘇(熊本YMCA)、山梨県都留(都留YMCA)等。
以上のような前史を経て、1953年に日本YMCA同盟の主催する農村YMCA指導者協議会が開かれ、農村青年塾の準備がなされる。そして1955年1月に東京小金井にて第一回「YMCA日本農村青年塾」が開かれることとなる。塾長は、戦前のYMCA冬季学校にも関わりをもち、戦後組織された日本YMCA農村事業部の委員でもあった酪農学園短期大学学長の樋浦誠(注3)であった。また、前職における樋浦は岐阜大学農学部の前身岐阜高等農林学校YMCAの1930年代からのリーダーでもあったので、樋浦の思いの中には、その頃から農村青年教育に強い関心があったと言えよう。この樋浦が、YMCA農村事業部委員会の席上、農村青年塾を強く主張したのである。樋浦の主張の中で注目すべきは「塾」という文言を付けることであった。従来、農民福音学校、国民高等学校、冬季学校等、「学校」という名称が付けられていたが、それは「学校」を官製のものから一般農民のものへと取り戻すという意味においては当を得たものであった。しかし、それは同時に制度的・組織的響きをもち、どこかで「官」と繋がっているという感想を一般農民に与えかねないという懸念もあった。樋浦は、実際に農業に取り組む農民、とりわけ次代の農村と農業を担う農村青年に戦後日本の農村更正と農業復興を託す意味をこめて「日本農村青年塾」としたのである。
第一回日本農村青年塾の主題は「新しき日本農村建設のために」であったが、その学習テーマの主なものを列挙してみよう。「中国の文化」「畜産の現状と将来」「日本農業の進路」「酪農経営」「土壌と肥料」「立体農業」「農村社会の基本問題」「農村政策」「農村金融」「アメリカの農村事情」「アメリカの4Hクラブ」「民主主義と農村青年」「グループワーク」「レクリエーション」「歌とゲーム」等である。講師は、賀川豊彦、出納陽一、池田実、柴三九男、松田智雄、遠藤修司、大谷英一、木俣敏、齊藤惣一、酒枝義旗、大崎治部、永井三郎等であった。これら講師の顔ぶれを見ると、無教会キリスト者など多岐に渡っている。これは、YMCA日本農村青年塾が日本のキリスト教界のそれぞれの農村活動を結びつける役割を果たしていたことの現れでもあろう。また、この中には樋浦を初代学長として生まれた、北海道野幌の酪農学園大学の創設に関わる者もいた。
(注3)
樋浦誠(1898-1991)。1922年、北海道大学農学部助手。1924年、岐阜高等農林学校教授(植物病理)。1965年、酪農学園大学退職。同年、農村女子三愛塾開設。1969年、浜松衛生短期大学学長。その間、1970年、岩手三愛農村塾開設。1975年、上富良野農村三愛塾開設。1980年、根釧農村三愛塾開設。1985年、旭川農村三愛塾開設。尚、自然農法で世界に知られる愛媛県の福岡正信は、樋浦の岐阜高等農林時代の教え子である。